放置癖再熱

さてさて、またまた放置してしまいました。
理由はいろいろございまして、一番大きな原因は仕事ですね。
ほんと、理不尽すぎることが多すぎますよね。
なんで、僕が、お前の仕事をやらないといけないんだよ!ってことが立て続くと、いろいろいやになってしまいますよね。
その反動で、家に帰ると大学生のころ見漁っていたハルヒやとあるシリーズを1話からすべてみるという暴挙にでてしまいましたよね。
とあるシリーズに至っては、漫画も大人買いしてしまいました。

とりあえず、自分を落ち着かせるためにサリンジャーの『フラニーとゾーイ』を読んでいますが、本当に、社会とか人間関係とかどうでもよくなるくらい素晴らしいですね。美しい言葉と概念だけが存在する世界でゆったりとした生活を送りたいです。

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

『朗読者』 ベルンハルト・シュリンク 松永美穂訳

朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)

なんとなく本棚にあったこの本を読んだのですが、ここ数年で一番感動しました。
文学の力というか、素晴らしさを強く感じ、心が揺さぶられる感覚は、本当に久しぶりでした。


ギムナジウムに通う15歳のミヒャエルは、ひょんなことから36歳のハンナに出会います。
ミヒャエルがハンナに恋をし、関係を持つまでに、それほど時間はかかりませんでした。
2人は幸福な時間を過ごしますが、それも長くは続きませんでした。いや、続いてはいたのですが、2人の関係には、少しずつ、不穏な影が落ち始めていたのです。

ミヒャエルは、ハンナとの幸福だった時間を以下の詩で表現しています。

ぼくたちが互いに開きあうとき
君がぼくにぼくが君に
僕たちが沈み込むとき
君がぼくの中にぼくが君の中に
ぼくたちが消え去るとき
君がぼくのなかで僕が君の中で

そうすると
ぼくがぼくになり
君が君になる(P71)

2人は、幸福な愛の中にいました。
そこでは、ぼくと君という区別もなくなり、まどろむような愛だけが存在するのです。
そこで2人ははじめて、自分が自分でいられるような、そんな特別な時間と空間の中に2人はいました。

しかし、その空間は、少しずつ、変化を見せていきます。
ミヒャエルとハンナは、些細なことで喧嘩を繰り返しますが、その度に、ハンナを失いたくないという気持ちに押され、ミヒャエルは不本意ながら謝罪します。ぼくを許してくれと。
そんなハンナとの関係性を恨めしく思うこともあったミヒャエルは、周囲の人たちにハンナのことを一切話さない黙殺行為によって、ハンナを裏切り始めます。この裏切りはミヒャエルにとって、「二人の関係の基礎を揺るがすもの」でありました。

その結果かどうかはわかりませんが、もう2人の間にまどろむような愛の空間はありませんでした。
ぼくのすべてと君のすべてがぴったり重なるようなその空間は、少しずつ、ほころびを見せていたのでした。

ぼくたちは共通の世界に生きているのではなくて、彼女が自分の世界の中で与えたいと思う場所をぼくに分けてくれているだけだった(P91)

その後、ハンナは突如として、ミヒャエルの前から姿を消します。
ハンナとの世界を失ったミヒャエルは、ハンナ抜きの世界を構築しようとしますが、そこに生気はなく、無機質なものしか作れませんでした。

そんなミヒャエルとハンナが再会したのは、裁判所でした。ハンナは被告として、ミヒャエルは傍聴人して2人は再会を果たします。
ハンナは、戦争犯罪人として、裁判にかけられていました。彼女は、ユダヤ人収容所の看守をしていた時の行動を、裁かれていたのでした。

この裁判のシーンは、非常に緊張感があり、読んでいてぞくぞくしました。
そしてこのシーンこそが、ドイツ人が過去のナチズムをどう受け入れ、精算するのかを問いかけているところであり、本書において、とても重要な個所であります。そして、ミヒャエルも親世代の犯罪行為(ナチスを受け入れたこと、戦後、ナチスに関わった人たちを裁かなかったこと)と、否応なく対峙します。そして、彼は、戦争犯罪人であったハンナを愛してしまったこと、この問題の精算も自身に迫っていくのです。

結局ハンナは、無期懲役を言い渡されることになります。
その後、ミヒャエルはハンナに朗読テープを送る形でハンナとの交流を持ちますが、彼女に会いに行ったり、手紙を書いたりすることはありませんでした。ミヒャエルは、ハンナとのそんな距離感が、自分の罪の意識と向き合う上で、一番、楽だったのかもしれません。

しかし、それは、ハンナにとっては、ミヒャエルのに自分の居場所がほとんどないことを意味していました。
現にミヒャエルは

ぼくは彼女を小さな隙間に入れてやっただけだった。その隙間はぼくにとって重要だったし、ぼくに何かを与え、ぼくもそのために行動はしたが、隙間は隙間であって、人生の中のちゃんとした場所ではなかった(P223)

とハンナとの関係性を語っています。
ハンナは、釈放の日に自殺してしまうのですが、彼女が自らの命を絶った要因のひとつに、ミヒャエルとの関係性があったのかもしれません。
とても悲しい物語であると同時に、とても考えさせられる物語でした。
こういう読書を、ぼくはたくさんしていきたいと、昔から思っていまして、この本に出合えたことが、本当にうれしかったです。

何度も読みたいと思える本でした。おわり。

『利休にたずねよ』 山本兼一

利休にたずねよ (PHP文芸文庫)

利休にたずねよ (PHP文芸文庫)

千利休を題材にした歴史小説歴史小説は、だいぶ昔に司馬遼太郎の『梟の城』を読んで以来であったが、面白く読めました。

利休は、豊臣秀吉に仕える茶人でありますが、秀吉の顰蹙をかい、自刃(切腹)に追いやられます。秀吉は、「大徳寺山門に安置された利休の木像が不敬であること、茶道具を法外な高値で入り、売僧となりはてていること」が気にくわないとして、利休に謝罪を求めますが、利休はいわれのない言いがかりであるとして、決して謝罪しようとしません。その結果、利休は自害を選ばざるを得なくなるのですが、秀吉がほんとうに気にくわなかったのは、利休の審美眼、美に対する確かな感覚についてでした。

秀吉は、利休の優れた審美眼の根底について知りたがります。なぜおぬしはそんなにも美しいものを正しくとらえるのかと。しかし、秀吉がその答えを利休にたずねても、利休は口を閉ざしたり、適当にあしらったりするばかりで、真相はわからずじまいです。
そんな利休の美の源流には何が流れているのか、その答えを探るために、利休切腹の日から若き日に遡る形で、本書は進んでいきます。歴史小説をほとんど読んだことがないのでなんとも言えませんが、時系列を遡って物語を進行させていくことは、結末が先にあって、そこに至る過程を眺めていくことになりますが、歴史小説的には面白みがないのでは?と読みかけの時は思っていました。しかし、利休の過去が明らかになるにつれて、彼の美意識の根底にあるものも徐々に明らかになる構成は、読者を最後まで退屈させず、結構ありなんじゃないかなと思いました。

利休は、茶の湯の神髄を「山里の雪間に芽吹いた草の命の輝きにある。丸くちいさな椿の蕾が秘めた命の強さ(P179)」にあるとし、絢爛で豪華なものの中に美しさを見出すのではなく、日常の中にある生命の息吹に美しさを見出しています。そして、それを茶の湯で形にしようとつとめてきました。そんな利休の美の感覚は、一人の女の影響を強く受けて成り立ったものです。

利休が19歳の時の話です。彼は、当時から茶の湯にのめりこんでいたものの、ろくに働きもせずに、女遊びに精を出します。彼は数々の女と遊んだことで、「女はくだらぬ生き物だ」という気持ちを強くしていきますが、ある時、一隻の船から降ろされる異国の女を目にします。この女は、高麗から連れてこられた女ですが、王家の血を引きながらも、政治的なトラブルに巻き込まれた結果、異国に売られた不幸な女でした。彼女は、大名に売られる予定だったのです。しかし、彼女は自分の境遇に屈従することもない、気高い女でした、そして、何よりも美しい女でした。

利休は彼女に、本当の美しさみたいなものを見出します。そして、彼女が知らぬ誰かに抱かれるのが耐えられなくなり、自分の手で高麗に帰してやろうと考えるに至ります。そこから利休はいろいろ画策し、彼女を連れ出すことに成功するのですが、堺の町は柵で囲われており、容易に舟を出すこともできません。しかたなく、2人は人気のない納屋に身を潜めるのですが、万事休す、そこで見つかってしまいます。利休は、服従の意思を示した上で、少しの時間がほしいと頼みます。そして、その時間で毒を入れた茶を淹れ、女もろとも死ぬつもりでいたのです。彼はまず、女に茶を淹れました。女は最初飲むのをためらいましたが、その後、毒入りの茶を飲み、もがきながら死にました。そして、利休は自分にも毒入りの茶を淹れ、飲もうとするのですが、全身が震えて飲むことができません。そして、最終的にはお茶をこぼしてしまい、彼は命を絶つことに失敗します。そう、彼は、女だけを死なせて、自分は生き残ってしまったのです。

この後味の悪い茶席の記憶が、利休の根底にはあります。
女だけを死なせて、不完全に終わった茶の席を乗り越えることが、利休の目的となったのです。それは不完全から出発して完全へと到達する道のりです。最初から完全なものに利休は美しさを感じません。「鄙びた草庵のなかにある艶やかさ」「冷ややかな雪のなかの春の芽吹き」、そうした万物に宿る命、生命の力の中に利休は美しさを感じるのです。彼が生命の命に拘るのは、彼の美しさの出発が、美しさを体現していた存在の死にあるからです。利休は、茶の湯の中で、生命の息吹を表現することで、彼女の死を乗り越えようとしていたのかもしれません。
しかし、有限な人間が無限の美を表現することは、簡単なことではありません。利休が、女だけを死なせて自分が死ねなかったように、人間は不完全さを抱える生き物です。そんな人間が美しさを表現すること、その僭越に利休は悩まされ続けたような気がします。

こうした利休の体験は、決して誰にも語られることはありませんでした。彼の根底にある高麗の女は、彼の実存的な問題として、彼自身が解決すべきものだったのです。それは、誰かに語ることで瓦解してしまうような、繊細な問題だったと思います。そこに土足で踏み込もうとしたのが秀吉でした。人間が抱える実存的な問題、それを誰かに踏みにじられたとき、死を選ぶ人もいると思います。個々人の抱える問題に、その繊細さに敏感な人間でありたいものですね。

それにしても、宮部みゆきの解説は、なんだかなーという感じでしたね。

『彼岸過迄』 夏目漱石

彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)

夏目漱石は『こころ』がめちゃくちゃ好きで(こころ以外ほとんど読んだことないが。。。)、一時期、『こころ』を取り上げた論文なんかを読んでたこともあったんだけど、その論文でよく参照されるのがこの『彼岸過迄

本書は、敬太郎を中心として「田口の物語」「千代子の物語」「須永の物語」「松本の物語」と展開していく。ただし、敬太朗はあくまで物語の外縁をうろつく傍観者に過ぎず、彼は物語を前にただ佇んでいる。

敬太郎の冒険は物語に始まって物語に終わった。彼の知ろうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼は遂にその中に這入って、何事も演じ得ない門外漢に似ていた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の放訪に過ぎなかった(P305-306)。

彼は、人間という存在を客観的に観察する「探偵」として立ち回ることになるが、それは表面的なところだけであり、内側の部分までは立ち入ることができない。そういう外から内への動きが、本書の前半部分で描かれているのであるが、後半では須永をとおして、内から外への動きが描かれる。この部分が本当に良かったと思う。

須永は、思慮深く誠実な男であるが、「世の中と接触するたびに内へとぐろを捲き込む性質(P276)」であり、感情などを表に出さず、自身の内側ですべてを自己完結するような人間である。そんな須永とは対照的に、須永の許嫁(許嫁という言葉には留保が必要だけれども)である千代子は、感情の赴くままに生きる活発で「恐れない」人間であるが、そんな千代子を須永は気楽な女であると蔑視している。

しかし、理性的で思慮深い須永は、そんな千代子に振り回されることになる。

僕の頭(ヘッド)は僕の胸(ハート)を抑える為に出来ていた。(中略)けれども胸が熱しかける度に、厳粛な頭の威力を無理に加えられるのは、普通だれでも経験する通り、甚だしい苦痛である。(中略)二つの争いが起こる度に、常に頭の命令に屈従して来た僕は、或時は僕の頭が強いから屈従させ得るのだと思い、或時は僕の胸が弱いから屈従するのだとも思ったが、どうしてもこの争いは生活の為の争いでありながら、人知れず、わが命を削る争いだという畏怖の念から解脱する事が出来なかった(P252-253)。」

須永は、許嫁(須永の母親が千代子が生まれた際に結婚の約束をしている)である千代子に対する恋心を、何かと理由をつけて隠そうとするのであるが、胸(ハート)の衝動を頭(ヘッド)が抑えられなくなったとき、彼は理にかなわない行動をしてしまい、千代子を苛立たせる。そうした千代子を見て、胸(ハート)はざわめき立つのだが、それを抑えようと頭(ヘッド)が働き、彼は自分でもわけがわからない立ち振る舞いを連発してしまうことになる。

こういう胸と頭の葛藤というのは、『こころ』の中でKが陥っていた状態と同じであり、Kは、自身にとって「精神的頽落」と同義である恋心を自身が抱いてしまっていることを認識したとき、存在理由みたいなものを確立することができず、自決に至ったのである。須永は、こうした胸と頭の葛藤が抱えるもどかしさを感じながらも、胸の衝動に従うことはできず、うだうだと毎日を過ごしているのである。

須永のこうした葛藤は、誰しもが経験することだと思うし、僕もたくさん経験してきた。本当は彼女に近づきたいんだけど、彼女は僕のことなんて好きかどうかわからないし、第一、いま攻めるのは早急であるといったように、自分の感情を押さえつけるように理性が働くことは多々ある。こうしたとき、感情の赴くままに行動することがよいのかどうかはわからないが、感情を理性で押さえつけるのは大変なストレスであることを考えると、自分の感情を上手に外に発散することは非常に大事な内面の働きである。

須永は、内にある感情を外にある他人に対してぶつけることが苦手であったために、いろいろ苦しんだのであるが、頭でわかっていてもなかなかうまくいかないから、みんないろいろ悩んでいて、人生に絶望してしまうんですね


はー久しぶりに文章書くと非常につかれる、今後はちょくちょく書いていきたい。

復活しました

2年半ぶりにブログを更新します。
正確に言うと、2年半の間、はてな側からブログを非公開設定にされてしまい、更新ができない状況でした。
理由は、以前書いた記事の中で、youtubeの動画を転載したものがあったのですが、転載元のレーベルから、僕のブログ記事が著作権何チャラにあたるため、削除するよう依頼があったようです。
その後、はてな側から、僕宛に削除要請のメールがきていたようなのですが、まったく気が付かずに放置していた結果、はてな側は仕方なく僕のブログ全体を非公開としたようです。

仕事がバタバタしていたこともあって、原因究明もままならない状態だったのですが、お盆休み最中にやっと重い腰を上げ、非公開設定を解除させることに成功しました。
今後は、ちょくちょく更新していこうと思います。

放置プレイ

めっちゃ放置してました。
ちゃんと仕事もして生きています。

社会人というのは、思ったより厄介でして、何かよくわからない歯車の一員として、しかもその自覚がないまま、身を粉にして働くことが求められています。僕も、毎日仕事に行く生活を繰り返していますが、仕事が生活の大部分を占めており、それ以外のことにあまり時間がさけていません。仕事ばかりしているせいか、あまり本も読めませんし、良くない状態に陥っているのは間違いないようです。とりあえず、今後は、あまりブログの内容を気にせず、書いていこうと思います。今、すごいやる気に満ち溢れています。

お酒

社会人になってから、お酒を飲む機会、量が本当に増えている。

このことが、深刻な問題であるのかどうかはわからないが、問題視しなければいけないのが、お酒を飲んでいるときの振る舞いである。

僕は、どうもお酒を飲みすぎてしまうと、饒舌になってしまい、思っていることをあれこれとしゃべってしまう節がある。

これは、本当に反省しなければいけないことだといつも思うのだが、反省の色はなく、毎度毎度しゃべり続けている。

ある人は、楽しそうに僕の話を聞くけれど、ある人はうつむきながら消えかけの煙草の先端ばかりを退屈そうに見つめている。

僕の勝手な振る舞いが、多くの人を取り乱しているのではないかと僕は感じてしまうのである。

ただ、いつもどこか開き直っている自分がいて、本当にしゃべりたいことがあるのなら、遠慮せずにしゃべるほうがいいのではないかと考えたりもする。

「雄弁は銀、沈黙は金」なんて誰かは言ったかもしれないが、お酒を飲んで、平然を装っているのは面白くないし、内からあふれ出てくる言葉を声に乗せて伝えてほしいという欲求が僕には強くあるのだと思う。

やはり、お酒の席で本当に楽しいことは、後先考えずに思ったことをそのまま口に出すことであって、色々と考えながら話すのは何か利口過ぎてつまらないのだと僕は懲りずに思ってしまっている。


つまり、僕は本当は反省する気など毛頭ないのであった(酔っぱらいの戯言)